11月15日(火)
川崎山薬師寺の川崎は川崎重工業株式会社の名前の由来によるものです。文化講演会の講演者の最初は川崎重工業(株)航空宇宙カンパニー(マザーファクトリー岐阜工場)のプレジデントを務められた後、本体の副社長を担当され、現在は顧問としてご活躍されておられる並木祐介様でした。本年、各務原に岐阜工場が出来て100年になります。岐阜工場設立当初、各務原は本当に何もない台地でした。そこに、巨大な工場が出来たのです、神戸から約1000人の社員さん、そしてそのご家族が各務原へと移住されてきました。本当に何もなかったのです。先ずは、各務原の那加(雄飛が丘、楠木町)辺りに巨大な社宅の建設、そして道路、電気、水道といったインフラの整備、病院の設置、余暇を過ごすグランド、更には公衆浴場など、人々が人間らしく生きられるような社会整備の全てを川崎重工(株)さんが進めていかれました。その中で、心の安らぎが得られる場所ということで神社、そしてお寺(薬師寺)の建立が進められました。故に、川崎山なのです。川崎山薬師寺に存在する、観音菩薩様の劣化がひどく、昨今修復作業に入りました。その折、この観音菩薩様が平安時代に造られたものであることが判ったと当日の住職のあいさつの中で話がありました。つまり、それほどの仏像を薬師寺本山が奈良の地から各務原に移す決断をされた国家の一大事でもあったのでしょう。各務原発展の歴史は、川崎重工業さん岐阜工場の歴史と言えるほど大きな話でありました。その後終戦へ、飛行機を作ることが禁止された敗戦直後から現在の大発展への取り組み、そして未来への方向性、地域貢献への取り組みなど夢あるお話を頂戴しました。水素で航空機が飛ぶ時代、人に変わってドローンが集配をする時代、恐らく、具現化していくのだろうなあと並木顧問のお話から感じることが出来ました。
そして、講演第二部では各務原市歴史民俗資料館学芸員長谷健生先生のお話でした。「現在鎌倉殿の13人が放送されていますが、そのクライマックスとなるはずであった承久の乱、各務原市民は非常に楽しみにしていましたが、どうやら触る程度で終わってしまいそうです。」ここから講演はスタートしました。承久の乱は子供の頃から各務原で生まれ育ったものなら内容は知らなくても名前ぐらいは絶対に知っており、遠足か社会見学かその旧跡である前渡不動尊は必ず訪れています。この前渡、その時代は摩免戸(まめど)と言われたようで、そこから現状の前渡へと変わっていったというお話です。この前渡、非常に水かさが浅かったようで、木曽川を挟んで多くの城が立つ美濃を攻めるにあたっては必ずと言ってよいほどここが舞台、攻略の地になっていたようです。また、もう一ケ所、川島の松原(地名)界隈が同じように浅瀬であったようで、ここからの攻め込みもあったようです。既に、以前のブログで紹介しましたが、この松原という地名はご先祖様が納めておられた領土であったことからその地名がつけられております。その後、墨俣の一夜場築城の折の活躍により、領地はこの松原から岐南町の野中に移ったというお話もさせていただいております。多くの歴史的なドラマにご先祖様は活躍され、そして生き延びられてこられたからこそ現在の私が存在すると考えると、命とは不可思議で、また本当にありがたいと感じます。さて、講演は承久の乱から関ヶ原の戦いへ、その前哨戦となった米野の戦い、その言われとされている古門書を紐解くと、関ヶ原の戦いから100年以上も経った戦勝記によるものであり、その記述は実際に戦われた人たちによるものでないことが判り(実際に戦った人たちは戦いの殊勲者であったために、その功績により岡山・島根に大きな土地をもらい移り住んだ)、その当事者によるコメント、更には徳川家康の手記にすら実際の戦いの場所はしんか野(現在の各務原市那加新加納町)であったことが読み取れるとのことでした。新加納の高台から、一気に地形は岐阜市に向かって沈み込みます。各務原台地の西の端であり、そこに現在の境川になっている堀が存在し、大きな堀の後もすでに発掘されていることから、新加納が決戦の場所であったと容易に想像が出来るという話でした。この西の端に今でも当社の社有地として各務原工場の跡地が存在し、遠く金華山(岐阜城)を見ることが出来ます。常に各務原が歴史を変える舞台であったことが楽しく学べました。「各務原を制する者が日本を制す」のだと、そして天下分け目の戦いは、西の関ヶ原、東の各務原なのだという素敵な絞めくくりで講演は終わりました。
並木顧問のお話、長谷先生の話、非常に楽しく有意義に効かせていただけました。私は、この文化講演会を主催する、川崎山薬師寺の奉賛会の副会長の大役を頂戴しており、こうした文化講演会にも最前列で参加することが出来ます。前回は千の風になってで有名な歌手の秋川先生が来られました。祖父が各務原の市長をしていた時代に時の薬師寺高田好胤管主と非常に懇意にさせていただいたこと、現住職様と父が非常に懇意にさせていただいたことから、この役職を頂戴することが出来ているのだと思います。いつしか、役職にふさわしい人物になっていきたいと考えております。
今回も、非常に勉強になりました、並木顧問様、長谷先生本当にありがとうございました。勉強になりました。歴史にはロマンがあります。良い一日になりました。
社長 松原 史尚