8月8日(火)
この日はとても大切な日です。私を産んでくれた母が生まれた日(誕生日)です。赤子とは不思議なものです。どんなにお腹が空いていても、お母さんからの食でなければ受け付けません。またどんなに暑い日でも、洋服1枚脱ぐのでも母親でなければ泣き叫びます。それは寒い時に洋服を着る時ですら同じです。自分たちが育った頃には紙おむつなどありませんでした。大小便の始末も手が汚れるといった感覚など感じることもなくしてくれたはずです。57年も前は、まだまだ日本経済は、それほど裕福でもなかったと想像できます。表に出て、美味しいものがあると自分では食べず必ず持ち帰って私たちに食べさせてくれました。学校で叱られてきても、父には先生に次いで再び叱られ、時には殴られることもありましたが、そんな時は身体を張ってでも守ってくれました。まさに母がいなければ、無事にこうして育っていることはなかったのでしょう。
私は少々知恵の遅れた子どもでした、父が著書の中で「3男の史尚は、人は良いが少し知恵が遅れた子ども」と記していますので、間違いはないのだと思います。小学校4年生になったとき、母がお小遣いを10円上げて、30円にしてくれると言ってくれた時は本当に嬉しかった気がします。「でも、高学年になったのだからまとめてもらって少しずつ使うことを覚えなさい。」と毎週土曜日に140円ずつくれました。既にお気づきと思いますが、計算が合いません。半年ほど経ったあるとき、近所の神社(公園)で、みんなで遊んでいると、「おまえ、お小遣いいくらもらっとる。」という話になり、30円、でもまとめて土曜日に140円もらっていると話すと、友だちたちに大馬鹿にされました。友だちの一人が10円玉を21枚貸してくれました。掛け算は出来ませんでしたが、かろうじて足し算、特にお金の足し算は出来ました。何度数えても30円が1週間では140円にならないのです。日が暮れてもまだまだ数えていました。日が暮れた頃、母が迎えに来てくれました。泣きながらお金を数えている私に母が「何しとるの」と聞くので、一部始終を語ると母は「やっと気づいたかね、勉強ができないということはそう言うこと。一生騙されて生きていくことになる。あんたはやさしい子、でもちょっと位は勉強もしないと、この先生きていけない」そう話した、母の顔からはぽたぽたと涙が落ちていた記憶があります。
そこから猛勉強をしました。精神統一が大切とお寺にお経を読む勉強、塾は解らなかったけど同級生と同じクラスに入れてもらい、それとは別に低学年とも同じクラスにいました。習字、そろばん、ボーイスカウト、少年野球、少年ドラゴンズにも入りました。少年ドラゴンズにも母が入れてくれました、少年ドラゴンズに入ると毎年6枚の外野席のチケットが送られてきます。大人の人に何度も聞きながら、ナゴヤ球場までたどり着きます。おにぎりに水筒、グローブを持った写真が今でも手元にあります。帰りはいつ帰ってくるかわからないはずなのに、改札を出ると必ず母が待ってくれていました。その頃の(株)マツバラ鋳造所は、それほど好調でなかったと聞きます。お嫁入りの時に持ってきた、着物やタンスはほとんどなくなったと母がいつの日か話していました。その全てが私のためにではないだろうけど、そんな時代に私がやりたいといったこと全てをさせてくれました。僅か2年、6年生になる頃には勉強は友だちに追いつき、そしてたくさんの友だちを追い越していました。
8月8日が来るといつもこうして子どものころを振り返ります。おかあさん、本当に有難う。何とか自分で歩けるようになっています。どうか長生きして欲しいです。いつまでも元気で、その願いは絶対に無理とはわかっていてもその日が来るまで一生懸命親孝行をしようと思います。おかあさん、お誕生日おめでとう。どうか、皆さん母親を大切にしてくださいね。
社長 松原 史尚