9月28日(木)
本日、崇敬します岐阜稲荷山本社の役員会に行ってきました。これまでは、他界された光好会長が役員をされてきたのですが、私が変わって役員を務めることになりました。
私自身も反省するところが多く、毎月の会社へのお参り、また節目のお供えや奉仕活動などにも参加し、欠かさず初詣などにも参詣させていただいてきましたので、お山は変わらずあるものと思ってきました。しかし、現状ではお参りされる人も減り、節目のお祭りなどへの参拝者も非常に減っているとのことです。寂しい限りです。本日の役員会は、少しでもお山に賑わいを取り戻していくためにどうしていくかというテーマで話が進められました。
日本人の手を合わせるという文化が廃れてきたのは今回表題にした「パワースポット」なる言葉が出てきたころからではないかと思います。パワースポットとは、どんな場所なのでしょうか。そこに出向くとパワー(エネルギー)がもらえて、自身が何かしらのご利益を得ることが出来るという場所なのだと理解します。そもそもそのような場所など存在するとは私は思いません。その場所にパワーをもらいに行き、帰りに事故にでもあるなどということはいくらでもあることです。初詣に行き、僅かばかりの賽銭をいれて、厚かましくも無病息災、商売繁盛、志望校合格、縁談成就、家内安全、交通安全を願い、神様が聞いていただけるとは到底思いません。
では神様が存在しないのかと言えば、そうは思いません。必ず存在されるのだと思います。これもいつかのブログで綴ったことがあると思います。何故、ご神前に鏡があるのか。祖父の受け売りですが、「鏡と神のちがい」「か(が)みとかみの違い」「か(我)みとかみの違い。」つまり、神様には世のため人のためになる事を祈ること、そして鏡に自らを映し自身の行いを振り返り、反省し、そして未来の行いを正していく。そのために鏡は存在するのです。神前に立てば、今生かされていることに感謝し未来への精進(努力)を誓う。その時に、始めて神様は正しい方向に導いていただける。「パワースポット」、神前とはパワースポットであることは間違いないのです。しかし、それは、何かしらの努力をしたり、誰かのために自らを犠牲にしたりした結果、受けることが出来るエネルギー(パワー)であり、社会全体の反映と幸福を願い、我なくそして神前では左の手のひらを神様として右手を自らとして一歩引いて柏手を打たせていただく場所(スポット)なのだと考えます。
誰のために手を合わせるのか、「今だけ、金だけ、自分だけ」、そこに神様が君臨するとは思えません。手を合わせる、自分以外の誰かの幸せを願い、そして自らの精進を誓い、世のため人のために生きていくことを誓う。それが神様に向かう姿勢と教わってきました。
今回の会議では明確な具体的な行動計画までは立案できませんでしたが、手を合わせることの大切さ、その自身に向かう姿勢を僅かの人にでも持っていただけるように今一度崇敬神社に賑わいを取り戻すためにどうしていくべきか、考えてみたいと感じた瞬間でした。
社長 松原 史尚